東中野事故


▲T'c200-4とTc103-277の衝突部分 わかりづらいが103は「へ」の字に歪んでいる 200は運転室部分が「く」の字に陥没
1988.12.5 東中野


▲運転再開した快速線を横目に、事故車を1輛1輛人力で中野まで運ぶ 写真の車輛はM103-21
1988.12.5 東中野-中野


▲中野に着いた事故車は中野区へ収容 順番はバラバラで手前からM336、M'21、T327 他の車輛も夜までには収容されている
1988.12.5 中野電車区

1988年12月5日朝9時半過ぎ、東中野駅で運転士と乗客1人の計2名が死亡する追突事故が発生した。

この事故は、東中野駅に停車中の先行電車(103系)に後続電車(201系)が突っ込む形で衝突したもの。直接の原因は後続201系の運転士がATSを切っていた(確認ボタンを押した)ため、先行電車に近づいてもATSのブレーキが効かなかったということ。ではなぜ切った(確認した)のに停止せず進行してきたのかということだが、ダイヤが遅れており、そして先行電車が「発車すると思ったから」という見込みで低速進入してきた、と言われている。

すでに遅れによる運転整理がかけられ、ラシ103系はミツ運用(835B)、ミツ201系はラシ運用(809C)に入っていた。

この直前の1988年12月1日にダイヤ改正され、101系全廃に伴う運転時分の見直しが行われてスピードアップが図られた。しかし、これにより朝ラッシュ時は遅延が目立つ様になり、また、遅れると最悪乗務停止まで含む注意勧告があるなど、見込み運転せざるを得ないという様な状況が当時のテレビの事故特番で紹介されていた。

詳細はわからないので突っ込んだ推測や意見は避けるが、この事故で首都圏各線のATS−P化が早められたことは確かで、車輛・地上設備とも急速に整備されていった。

衝突したのは103系はラシ336編成、201系はミツ6編成で、ラシ336編成は山手線でさよなら運転に使用され、11月中旬に転入してきたばかりであった。中間のユニットは初期車で非冷房車。

この事故により、双方の20輌中合わせて18輌(ラシ336のTc278とミツ6のTc3以外の車)が廃車となってしまっている。

事故車は全て一旦中野区へ収容されたが、現場から中野区までは1輌ずつ、基本的には人力(途中から八王子常駐のDE10が使用された模様だが)で運ばれた。しばらくそのまま留置されていたが、中野区内で解体されている。

総武中央緩行線では2編成が不足となってしまったが、三鷹区へは廃車予定の車を掻き集め、また習志野区へは、横浜線205系投入による、蒲田区→中原区の転属予定のもの・玉突で中原区から捻出されたものなど、どちらも103系を使って応援編成が仕立てられた。

次項・次々項で詳細をご紹介。

 

←千葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三鷹→

 

クハ103

モハ103

モハ102

サハ103

モハ103

モハ102

サハ103

モハ103

モハ102

クハ103

ラシ336

277

334

490

326

21

21

327

336

492

278

衝突された側の編成 三鷹方Tc278以外は廃車解体



 

クハ201

モハ201

モハ200

クハ200

クハ201

モハ201

モハ200

モハ201

モハ200

クハ200

ミツ6

衝突した側の編成 千葉方Tc3以外は廃車解体


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